自分の故郷が大切な人にこそ読んでもらいたい「なおえつ うみまちアート」批判② ~地方が東京の食い物にされる時代を生きるために~

なおえつ うみまちアート」批判② ~地方が東京の食い物にされる時代を生きるために~ うみまちアート批判

はじめに 地方とは何か

これを書いている7月25日。

本来なら「上越まつり」が開催されている日だ。

直江津八坂神社の御神体を移した御神輿が高田まで運ばれ、24日の高田祇園祭を経て御神輿は26日に関川を船で下り、直江津祗園祭へと突入する。

26日は例年直江津港で花火が打ち上げられ、29日の御饌米奉納まで祭りは続く。
しかし、今年もコロナ禍のためにお祭りはない。

私も毎年7月24日の高田祇園祭では仲町六丁目の御神輿を担がせてもらっているため、お祭りのない夏は何かもの足りない。

今回の「なおえつ うみまちアート」批判は、とりもなおさず、自分たちの故郷とは何なのか、自分は一体何者でどこへ向かっていくのか、そういった、現代で失われつつあるものを考える機会になればと思っている。

私は夏の星空や、冬の雪景色を見ていて「人は自分の意思で生きているように錯覚しているが、実際は目に見えない大きなものに生かさているのだな」と思うことがある。

みなさんもぜひ、この機会に自分の故郷や自分の存在に思いを馳せてみてほしい。
革命家とはロマンチストなのだ。

地方が危ない

新自由主義に呑み込まれる地方行政

今回のアートフェスを批判する最大の理由のひとつが、新自由主義に呑み込まれる地方行政に対する危機感である。

新自由主義の説明は、私が代表理事を務める上越零細連のホームページに書いたのでそちらも参照してほしい。

なぜ日本は変わらないのか(政治の右左、経済の右左)
上越零細連 2021年今後の方向性(その2)レポート「なぜ日本は変わらないのか(経済の右左、政治の右左)」・とにもかくにも高鳥修一議員に提言を出した・高鳥議員も政府に対して提言を出した・それでも日本は変わらない・なぜなのか2回に分けて上越零

簡単に言えば「政府は昔のようにお金を出して地方を守ってはくれない」ということだ。
政府は国民を守る自らの義務を放棄し、民間、個人の自助努力を強要する。

その結果、弱者は切り捨てられ、勝ち組と呼ばれる強者にますます富が集中する。

1980年代半ばから世界を席巻してきたこの新自由主義は、地方、つまり私たちの故郷を破壊し続けている。わかりやすいところでは、鉄道、郵便といった、明治以来国力を挙げて構築したインフラ・ネットワークは民営化によって破壊された。
※郵便という社会インフラをつくったのはご存知のとおり上越出身の前島密である

ここ十数年の間にも「新しい公共」「地方創生」、そして最近では「SDGs」といった耳触りのいいキャッチフレーズを政府は掲げているが、要するに「政府はもう地方の面倒を見ないから自力で生き残れ」ということである。

上越市で2005(平成17)年に実施された「平成の大合併」ももちろんその流れの中にある。政府はとにかく地方への予算を削減したいのだ。地方自治体が一番恐れているのは、政府が地方のために支出する「地方交付金」の削減である。

政府が地方を見捨て、地方交付金が減額されたら地方は終わる。
だから地方は中央に頭を下げるか、出し抜くかという化かしあいが続いている。

北海道夕張市は見せしめに財政破綻させられた。
大阪府泉佐野市は自力で生き残るためにふるさと納税を活用しネットショップ事業をやったところ、政府から槍玉に挙げられた。

これが地方の直面する現実である。

包括連携協定という罠

地方自治体の首長がまともな人物であれば、新自由主義に反対し、政府が国民を見捨てないよう地方に財政支出を求めるはずである。しかしそうはなっていない。

このような経緯で、それまで行政が公共の名の下に行っていた行政サービスは、徐々に民間に移されることになった。民間資金によって公共を担わせようというのである。

すでに実施されているものが1999(平成11)年に成立した「PFI(Private Finance Initiative)制度」、2007(平成19)年に成立した「指定管理制度」といったものだ。
上越市においてPFI制度に基づくものは「上越市市民プラザ」といえばわかるだろうか(ここではその詳細は割愛する)。

そして上越市において「行政改革」の名の下にまさに行政サービスの改廃の真っ最中である。

廃止・譲渡など67施設 上越市が公共施設の適正配置計画案 温泉、公民館、スポーツ施設など - 上越タウンジャーナル
新潟県上越市は2020年12月4日、「公の施設の適正配置計画案」を市議会総務常任委員会に示した。667の公共施設のうち、15年前の市町村合併で重複する市の温泉施設やスポーツ施設、老朽化した集会施設など67施設を今後10年で廃止や民間譲渡する計画だ。 同市は2005年の13市町村合併の後、本年度まで3次にわたり公共施設の...

前項で書いたように、平成の大合併は市町村を整理統合することで、自治体の効率化を促し政府負担を減らそうとするものだ。こうして、それまで各自治体にあった施設や、経営が立ち行かなくなった施設次々になくなっていく。

みなさんは「利用者が少ないのだから仕方ない」「そもそも民業圧迫なのだから廃止も必要」などと思うだろうか。その考え方こそ、新自由主義にどっぷり浸かった間違った発想なのだ。

本来、行政が運営してきた施設は「民間なら儲かるわけがない」から行政が設立してきた経緯がある。

実は地方においては人口減少、高齢化が進むから政府がお金を出せない、という理屈は逆で、お金を出さないから過疎化が進んだと考えるべきだ。

こうして自治体の中で中山間地に後継者はいなくなり、過疎化は進む。
そして一歩引いて見れば、地方そのものに人がいなくなり、東京一極集中が進むばかりなのである。

話を戻す。
この流れの中で日本中で増えているのが「包括連携協定」というものだ。

民間企業の人的、財政的資源を活用するというもので、新潟県、上越市だけではなく日本中の自治体が様々な企業と締結している。それぞれの締結した内容は前回市役所の取材の中で引用したとおり、非常にざっくりしたものである。

今回の「なおえつ うみまちアート」はこの包括連携協定を根拠にイベントが企画され、市、政府合わせて6800万円が支出されることになった。

結論を言おう。

結局、包括連携協定は新自由主義日本において、大企業の新しい「金づる」なのだ。

競争入札制度というものがある。

政府や地方自治体が民間からものを買ったり業務を委託する場合、原則として競争入札によることと法律で決まっている。

私は小さなタイヤ屋を経営しているが、もし上越市が所有している車両向けにタイヤを売りたいと思ったら、入札手続きを踏まないといけない。それでも競争入札に負ければおしまいである。

しかし、この包括連携協定の最大の「不公平」は、大企業だからこそ持ちうる企業体力、ブランドイメージに行政側が依存する形になるため、最初から企業ありきでお金が動くということだ。

地元零細企業が苦労して見積もりを作成し入札しているはるか上空を、東京の大企業がやすやすと飛び越えていくその姿は歪(いびつ)である。

折も折、最近お隣糸魚川市で官製談合事件があり、市職員が逮捕された。
競争入札は負ければ終わり。だから持ちつ持たれつ地域を維持するために談合の余地が生まれ、必要悪と言われてきた。

しかし包括連携協定は談合などものともしない。
大企業は協定一枚だけで地方自治体の手を取ることができるのだ。毎年のようにコツコツ見積もりを作り入札してきた地元の中小零細企業は、これをどう思うだろうか。

無印良品が上越を助けてくれるのではない

ここまで、新自由主義による政府、大企業を批判してきた。
しかし、もちろん「地方側の無責任」にも問題がある。

そもそもなぜイトーヨーカ堂は撤退することになったのか。

新自由主義に関係なく、企業というものは利益がなければ存続できない。
これは中小零細も同じだ。

儲からなければ撤退するしかない。
だから、体力のなくなったヨーカドーは上越市からいなくなった。

そこに、現時点で体力がある企業が出店してくれたといっても、未来にわたり上越市のまちづくりに彼らが責任を負ってくれることはない。

巨大なチェーンストアの出店に依存する心理と、その出店によって古くからの零細商店を潰してきたまちづくりが失敗だったと認めるべきなのだ。

さて、今回の包括連携協定に「上越市及び直江津地域の活性化に関すること」とあるが、私は疑問に思う。この6800万円をかけたイベントで上越市、直江津の地域活性化がなされるのであろうか、と。

私自身は「地域活性化」という言葉自体がまやかし、欺瞞であると思っている。
一生懸命「地域活性化」をやればやるほど、実は地方は衰退していくのであろう。

たとえばアートフェスの先輩である十日町市は大地の芸術祭で幸せになったのだろうか。

「大地の芸術祭を通じた地域活性化」の共創による関係人口創出プログラム|総務省モデル事業の取組事例|『関係人口』ポータルサイト
「大地の芸術祭を通じた地域活性化」の共創による関係人口創出プログラム

人口は増えたのだろうか?
市民の所得は増えたのだろうか?
中山間地はどうなったのだろうか?
未婚率は改善しているのだろうか?

「交流人口」「関係人口」などというそれらしい言葉は、政府、中央がなんとなく自分たちの仕事をした気になっているだけの詭弁ではある。しかしそれに安易に乗ってしまう地方側もまた無責任なのだ。

私の批判に「盛り上がればよいじゃないか」と言う人がいる。
その人は盛り上がった「だけの」先にある上越市の未来に何らかの責任を背負ってくれるのだろうか。

今回の「うみまちアート」をきっかけに、我々地方に住む人々全員が試されていることに気づかなくてはならないのだ。
(つづく)

追記1
当初二部構成にする予定でしたが、長くなりそうなので構成を変更しました。

追記2
7月21日、私のFacebookに、地元上越の現代アーティストである堀川紀夫さんがメッセージを寄せてくれた。地元アーティストが私の発信に応じてくれたことが嬉しいし、非常に緊張している。
次回はまさに「なぜ地元アーティストを大切にできないのか」という内容を予定している。

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